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「好きなことがわからない」
2008.10.11

「好きなことがわからない」

 しばらくブログの書き込みを休止していました。最近は少しスパムも減っているようですが、また書き込みを始める増えるかもしれません。いっそサイトを変えようかとも思っています。

 さて、書きたいことは山ほど溜まりました。
先日、27歳の女性から「趣味を作ろうと思っても三日坊主で続かない」ということを聞きました。
「自分の好きなことじゃなきゃ続かないでしょ」と言うと、「好きなこと?」としばらく考えてから「好きなことって何だろう????」と首をかしげながら、「わからない」というのです。

 そういえば、そんな人が多いと思ったことがあったことを思い出しました。でもそう思ったのは、もっと歳を経た人だったように思います。20代で「好きなことがわからない」って・・・・・。

 このことで、最近感じたのですが、人間ってもう3歳の頃にはそれなりの価値観を持っているなー、ってことに気づきました。
いわゆる「いい子」と判断される子、手のかからない子においてですが、お母さんに逆らわず、お母さんの望みに従う、お母さんの「正しい、良い」ことを自分の価値観にしている子供。そんな子は自分がやりたいことよりも、お母さんが何をさせたいかの方に興味があり、お母さんの顔色を伺い、お母さんをボスとして仰いでいるのです。

 「がんばれ!」と言われると頑張っちゃう。「すごいねー」と言われると達成感、充実感に満たされる。お母さんの気持ちは頑張る自分にはいつも向けられるから、お母さんの期待に沿うことそれだけが精神的糧になってしまう。逆に頑張らない自分には向けられないので、できない自分は自分でも認められずとにかく「勝つ」ことにこだわる。

 何がしたいか、と訊ねられると、「お母さんが認めてくれること」⇒“おかあさん命”
これって、“会社命”のサラリーマンの生き方そっくりじゃない?「上司に認められる自分になるよう頑張ります」「そうか、期待してるよ!」と言われ、頑張っちゃってる会社人間。

 なんだか、寂しい気持ちになってしまいます。
お母さんが認めてくれる自分をこうして一生懸命作って成長すると、こんな会社命(誰かに従う)になるのだって全然抵抗ないでしょうね。つまり社会的にはそういった人間を要求していると言えますね。でもそれでは「自己」のアイデンティティーも、個性もつぶれ、だから「好きなこと、したいことがわからない」ただの指示待ち人間になってしまう。多様性の一部としての存在は失せてしまう。そう思ってしまいます。

 お母さんに叱られても、そのとき楽しいこと、好奇心に従うことが、自分にとっての価値になっている子供。そんな子を見ると、とても子供らしい、人らしいと思うし、そういう素質が失われないように願ってしまいます。

 一旦「Win(階層志向)」(勝ってなんぼの世界)という価値観の根を下ろすと、簡単にそこか帰還することは難しくなるようです。みなさんもそういった目で周囲を観察してみるとよくわかると思います。
 今月のメルマガはその『階層志向』をテーマにしています、興味のある方は是非読んでみてください。

 好きなこと、したいことを見つけるために「自分探し」などの“自己開発セミナー”が流行るのでしょうか。でもそんなセミナーで自分の好きなことや、やりたいことって見つかるのでしょうか。
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2008/10/11(Sat) | 快のままに | トラックバック(0) | コメント(20) | page top↑
「スパム」
2008.10.7.

「スパム」

 このところブログへのスパムが多く、その対策に苦慮しています。
毎日、毎日、スパムを削除するのに余計なエネルギーを費やさなければならず、どうしたものかと頭が痛い状況です。
皆様のブログではいかがでしょうか。

 こうしたスパムは、機械的に送られてくるようで、内容を読むこともなく毎日自動的に送られるようです。
このFC2ブログでは、拒否登録も制限があり、それをはるかに超えてしまった場合どうすればよいのでしょうね。

 せっかく真面目に読んでくださる方にも迷惑かけてしまうのですが、そのことを面白いと思っているのでしょうか。
インターネットの便利さとともに、その反面のこうした不便さを同時に実感する今日この頃です。

 もう少し様子を見て、良い対策を探してみたいと思っています。




2008/10/07(Tue) | 快のままに | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
「志摩」
2008.10.5

「志摩方面」

1. 検討中の物件の再視察
2. 新物件の2件見学

1. 現地で偶然に地主さんと遭遇し、田舎暮らしの先輩宅を紹介していただき見学させていただきました。10年で作り上げた畑は、手入れが行き届き、すばらしい畑になっていました。地主さんありがとうございました。
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2008/10/05(Sun) | 快のままに | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
続「クオリア」
2008.9.25

続「クオリア」

 クオリアについては、2008.7.30「クオリア」で、茂木健一郎さんの視点から既にご紹介していますが、これは、まだ科学の分野では研究の段階にあるのですが、私見としては既に仏教の分野において、根本の教理として密教上で伝えられていることであると考えています。

クオリアは、主観的体験であって、「対象に対してどう感じているか」なので、それをまず正確に第3者に伝えることすら難しい問題です。その上「その感じはどこから、どのように発生しているのか」を探るというわけです。脳のある部分の血流が活発になることは容易に知ることができますが、りんごの赤という“ソレをソノママ”外側から計測することはできません。上記の引用上にもありますように、『我々は意識メーターを持たない』からです。

 私たちの世界のすべては、そういった個々の主観が「感じる」“ソノモノ”によって成り立ち、感じている“ソノモノ”が“ソノママ”その人の世界となっているということです。なので、その人の感じている世界と私の感じている世界には、当然ズレが生じます。このことは以前、2008.9.5ブログ「見える壁」、メルマガ2008年9月号では映画「羅生門」を例にしてお話したことがあります。このように個々人がそれぞれ独自の世界観をもち、その世界の中で生きている。早く言えば、その人が死んだら、その世界もなくなる、ということです。

 この概念を仏教では『色即是空、空即是色』の代表的言葉でも説明されています。
色を世界と置き換えると、そのまま意味が明快になると思います。

物理学的にはまだこの説明はできませんが、量子力学を適応すると、同様な考え方が示唆されています。(この詳細の記述がなければ、後日あらためて書き込みます)

 と、解ったようなことを言っていますが、実は私がこのことに気づきはじめたのは40歳を超えてからと記憶しています。一気に理解できたわけではなく、徐々に少しずつ世界とは主観によって出来上がったものであるということの理解を深めていきました。ですからそれ以前には、世界は固定されたモノ、すべての人が見える世界はみな同じ、という考えでした。ですから、自分と異なる意見や主観をどうしても理解することができませんでした。

 「世界」は固定されたものではなく、個々それぞれが自己の体験によって得た情報の蓄積を元に、そういったベース上から主観によって判断された世界であるから、それらすべては異なる主観による異なる世界である、そのように理解し、そのように人を見ると、全てが興味深く見えてきて、周囲の人々を理解するにはその主観に目を向けるひつようがあることを知り、それぞれの主観の背景や、心の内面へ意識を向けるようになりました。その結果、人間の内面的機微へ心惹かれ、それまで知らなかった世界の存在を垣間見る悦びを知るようになりました。こうしていつのまにか人間好きな私に変容していたというわけなのです。

 それでも、理解に苦しむことは多々あります。例えばお笑い芸人の売れっ子のなかに、全く笑えない面白くない人たちが存在しますし、殺人事件を追いかけるようなドラマや、
アクション映画などへの興味は、未だにまったく興味を持つことができません。ですからそういった類の作品を作る人をどう理解するか、そこにはどんな背景があるのか、は今後のテーマでもあります。

 いづれにしろ、個々の「クオリア」(感じ)は、複雑な背景を持ってはいるのですが、そこには当然世界を大方同一に見られる共感グループもあることがわかります。そうでなければ文化の発生はありえず、国民性、人気などという現象も生まれません。

 ただ、これまではこの最大多数的共感グループが「正しい見方」であるという風潮の上に則った社会(常識、普通)を作ってきたことが問題である、なぜなら、一人ひとりが深く考えることなく多数派につき従う、またそのように洗脳されてしまう風潮をつくっている、という考え方があらゆる分野で湧き上がり、その中の一つが「クオリア」の研究にも至っていると思うのです。あたかも反主流派は罪人のごとく扱われる(特に政治の世界で)社会に、反旗を翻す研究ではないかという気がしています。

 今後も「クオリア」の研究成果を期待しています。



2008/09/25(Thu) | 快のままに | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
「クオリア」
2008.9.24

「クオリア」

 “暑さ寒さも彼岸まで”と言います。
このところ、すっかり秋めいてきました。
私も、季節柄か思索にふけることが多く、ついブログへの書き込みが遠のいている此の頃です。今日はそういった思索の一部「クオリア」という概念について筆を走らせたいとおもいます。

 海の天使と呼ばれる「クリオネ」のことではありません。あれもいいですよね、クリオネを思い浮かべるだけで癒される、いい感じになる。

 そう、実はこの“感じ”のことを、科学的用語として「クオリア」と呼んで、最近ではいろんな分野の科学者たちが様々な立場から研究テーマにしているというんです。

 「クオリア」は1929年アメリカの哲学者クラレンス・アービング・ルイスが著作『精神と世界の秩序』において現在とほぼ同じ意味の形でクオリアという言葉を使ったことから始まりました。


Wikipediaより引用
  私達に与えられる異なる経験の中には、区別できる質的な特徴があり、それらは繰り返しあらわれているものだと考えられる。そしてこれらには何らかの普遍的なものだと考えられる。私はこれを「クオリア」と呼ぶことにする。クオリアは普遍的だが、様々な経験から得られるものを比較していくならば、これらは対象の特性とは区別されなければならない。この二つの混同は、非常に多くの歴史上の概念に見られ、また現代の基礎的な理論においても見られる。クオリアはダイレクトに直感され、そして与えられるものであり、純粋に主観的なものであるため、何らかの勘違いといった類の話ではない。

– ルイス『精神と世界の秩序』(1929)


 と、このように定義づけられ、「クオリア」の概念は誕生したらしい。その後彼の教え子たちによって広められ、アメリカの哲学者トマス・ネーゲルが提示した「コウモリであるとはどのようなことか」という思考実験において、大きな転機を迎え、物理主義はクオリアの具体的な表れについて完全に論じきれていない、という主張が強くアピールされる。その後1970年代後半あたりから、オーストラリアの哲学者フランク・ジャクソンらによって徐々に科学や物理学との関連の中で、「クオリア」の議論が展開されることが多くなる。

 最終的にこの流れを決定付けたのは、オーストラリアの哲学者デイヴィット・チャーマーズだった。チャーマーズは1995年から1997年にかけて一連の著作を通じて、現在の物理学とクオリアの関係について、非常に詳細な議論を展開する。この議論が大きな反響を呼び、今まで一部の哲学者の間だけで議論さていたクオリアの概念が広い範囲の人々(脳科学者のみならず工学者や理論物理学者などまで)に知れ渡るきっかけのひとつとなった。

クオリアを言語や物理的特性として記述しきることができないことは、哲学でしばしば議論される幾つかの疑問と結びついている。

クオリアの科学はどのようにすれば可能なのか。科学的方法論に基づいてクオリアを扱っていこうとした時に出会う最大の困難は、実験によってクオリアを測定することが出来ない、という点である。このことを『我々は意識メーターを持たない』などと比喩的に表現する事もある。どうすればクオリアや意識を科学の表舞台に引き上げることができるのか。科学哲学の知見を絡めて議論される。
また、人工知能など、一般に意識を持つと考えられていないものが、センサーを通じて光の波長を処理できるとしたら、そのときその人工知能には意識があり、人工知能は赤さを感じているのか[22](⇒人工意識)。
自分以外の人間に意識があり、クオリアを経験しているのか(⇒他我問題、独我論)。


次回へ続く
2008/09/24(Wed) | 快のままに | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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